レガシィブランドを築き上げた2代目レガシィ
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時代の荒波の中で生まれた2代目レガシィ
どんなヒット商品でも、2代続けてヒットさせることは容易ではない。それはレガシィも同様だった。バブル絶頂期に開発が始まった2代目レガシィは、発売時にはバブル崩壊という時代転換の波にさらされていた。
2代目レガシィと同時期にモデルチェンジが予定されていた各社の次期車は、拡幅3ナンバー化、大排気量化があたりまえのような風潮だった。いずれもバブル期に開発がスタートしていたためだ。実は2代目レガシィも、
開発当初は拡幅3ナンバー化、6気筒化が検討されていた。
しかし、クルマというものは血を受け継いでいかなくてはいけない。そして、きちんと内容を進化させていかなくてはいけない。「継承・熟成」は、2代目レガシィをまかされた土屋孝夫の強い思いが生み出した開発テーマであった。その結果「3ナンバーへの拡幅はスバルのとるべき道ではない」という結論に達し、5ナンバーサイズを継承することになった。「5ナンバーでいくからには、すべての性能で3ナンバーに負けないものをつくろう」と土屋たちは決意した。
その後、5ナンバーにとどまったことは、スバルらしい見識だと評価された。3ナンバーに拡幅した他車の販売台数が軒並み前年を下回るなか、2代目レガシィは販売記録を次々と更新していった。
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「パッケージングデザイン」の完成
2代目レガシィは「パッケージングデザイン」という面でも革新的だった。それまでスバルのデザイン作業は、設計部門が決めた枠組みの中でデザインするという手法がとられていた。しかし2代目レガシィからはデザイナーの立場からも骨格についての注文を出すという新しいアプローチをとった。
パッケージングを主体にデザインを決めていくという手法はヨーロッパ流であり、その徹底のために、デザインの開発には外国人デザイナーを起用した。
ある時、そのデザイナーが「水平対向なのだから、フードをもっと下げて欲しい」と主張した。これに対して設計部門は「サスペンションストロークを確保するためには、これ以上は下げられない」と主張、互いに譲ろうとしなかった。そこでヨーロッパ自動車工学の最高権威に判断を仰ぐため、揃ってイタリアまで飛んだ。そのデザイナーが師と仰いでいる人物だった。
その権威の判断は「設計の言うことは間違っていない」というものだった。これを聞いたデザイナーはそこで頭を切り替え、以後は集中してデザインに取り組んだという。
結果について杉本は、「グランドツーリングという言葉に代表される『走りをべ一スにした精悍なスタイル』が実現できた」と言う。レガシィがワゴンブームをもたらした要因のひとつとして、このパッケージングデザインの完成が大きな役割を果たしている。
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「単なる変化のためにデザインを変えるべきではない」 |
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レガシィの熟成「全性能モデルチェンジ」
2代目レガシィは市場で高い評価を受け、販売台数も好調に推移した。しかし開発陣にとっては、まだまだやり残したことがあるという思いが強かった。
性能全体の取りまとめを担当した大林眞悟は「BMC(ビッグマイナーチェンジ)で何とかしてやろう」と思っていた。
BMCにあたり、開発チームはまず徹底的なヒアリングを行なった。全国のディーラーを回り、ユーザーから生の声を聞いた。そこで得られた意見を開発課題とし、直せる部分はすべて直す、ユーザーを裏切らない、そしてユーザーの期待を超える進化を実現させようと意気込んだ。
開発コンセプトは「熟成を極める」とした。その結果、フルモデルチェンジに匹敵する大規模な開発となった。しかしエクステリアに関しては「単なる変化のために変えるべきではない」として、中身が充実したことを表現するような、ごく限られた個所のデザイン変更にとどめた。
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280PSエンジンヘの挑戦
BMCにあたって、エンジン部門はターボの280PS化を提案した。全性能モデルチェンジというからには、エンジンの進化は必須条件だった。しかし、エンジンパワーを上げるからにはシャシーやサスペンションも根本的に見直す必要がある。
「正直、マイナーチェンジでそこまでの変更ができる自信がなかった」と大林は言う。しかし、これがスバルの走りをさらに飛躍させるきっかけとなるだろう、という気持ちもあった。しかもエンジン部門は「280PS出せるエンジンを
つくる」と譲らなかった。
簡単には後に引けないと思った大林は、それに応える策を練った。そしてブレーキの大型化、タイヤの17インチ化などを提案し、いずれも実現させた。
しかし、サスペンションのセッティングがどうしても決まらなかった。大林がイメージする安心感のある走りにならなかったのだ。このままでは商品としては発売できない、と困っていたところ、操縦安定性の実験担当者に「いいものがあるから乗ってみてくれ」と声をかけられた。乗ってみると、まさに大林が思い描いていた乗り心地だった。
大林は、さっそく土屋を呼んで試乗させた。
「この乗り味はどういうことだ?」と土屋も驚いた。
その車両に搭載されていたものこそ、ビルシュタイン製の倒立式ダンパーだった。その後、ビルシュタイン製ダンパーを装着したGT-Bは予想を上回る人気を博し、レガシィブランドを代表する車種のひとつになった。
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先見性が生んだアウトバック
日本国内で大ヒットを記録する一方、アメリカ市場での販売は苦戦していた。当時アメリカではSUVの全盛期で、レガシィのターゲットとなるべき世代はこぞってSUVに乗っていたのだ。
こうした状況の中で生まれたのがアウトバック(日本名:グランドワゴン)だった。コンセプトは乗用車とSUVの長所を融合したクルマという意味で“Best
of Both"とした。ラフロードも走破できるSUVの機能と、乗り心地や燃費といった乗用車としての機能を持ち合わせた「クロスオーバー」という新しいジャンルの開拓に挑んだ。
タイヤの外径アップ、最低地上高200mmといった要件が実現されていったが、問題となったのはエンジンだ。排出ガス規制でターボモデルが展開できないアメリカでは、どうしても2.5リッターのNAが必要だった。4気筒で2.5リッターは無理との声もあったが、エンジン開発部門は苦心の末に2.5リッター化に成功した。
このアウトバックは期待どおりアメリカ、オーストラリアなどで大好評を博した。スバルにとってはまさに起死回生の大ヒットだった。また、後に登場する多くの他社クロスオーバー車の草分けとなった
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| ■ 2代目レガシィが残した、現在に受け継がれる価値 ■ |
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レガシィの基本を罹立
「レガシィとは何か」を突き詰め、エンジン、シャシー、ボディはもとより、ドライビングポジ ション、視界設定まで「走りのクルマ」を軸に一貫性をもってつくり込んでいく。その開発手法は現在まで受け継がれている。
常に価値のあるものを提供する
BMCでは280PSターボエンジンやビルシュタイン製ダンパーなどを採用、FMCに匹敵する大幅な商品力向上を果たした。
この背景には、最新技術を投入したいという技術者の意欲のみならず、常に価格に見合う価値をもったクルマを提供したいという真撃な姿勢があった。
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土屋 孝夫 (つちや たかお)
1967年入社。車体設計一筋にレオーネなどの開発に携わる。初代レガシィ開発では国内導入後、米国工場の技術駐在として滞在。2代目レガシィの開発プロジェクトのリーダーを務める。
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大林 眞悟 (おおぱやし しんご)
1970年入社。研究実験畑を歩み、操縦安定性、乗り心地などの開発に携わる。エンジニアとしてサファリラリーなどに参加。2代目レガシィでは性能全体のとりまとめを担当。 |
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