スバルの未来を開いた「革新のクルマ」
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「このままではヨーロッパで相手にされない」 実験部隊のリーダーだった桂田勝は、アウトバーンを走りながら危機感を募らせていた。1983年のことである。
スバルの屋台骨だったレオーネの次期モデルの走行テストを実施するために、桂田たちはヨーロッパを訪れていた。しかし、試作車でアウトバーンを走って、桂田らは愕然とした。欧州の高性能車とのレベルの違いを思い知らされたのであった。
帰国後、若手エンジニアを中心としてミーティングが繰り返された。議題はレオーネのフルモデルチェンジだったが、誰もが根本的な変革が必要だと考えていた。
エンジン開発を担当していた工藤一郎は、「次のフルモデルチェンジではエンジンを基礎からつくり直したい」と語った。車体やシャシーの担当者からも、同じような意見が出てきた。
「それなら、これまでの延長線ではなく、まったく新しいクルマをつくろうという気持ちで一枚岩になった」 デザイン室のトップだった杉本清は当時の状況をこのように回想した。
スバルの新型車、レガシィの開発プロジェクトがスタートした。
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世界最高の2リッターエンジンを目指す
80年代後半の急激な円高により、日本の自動車メーカーは海外での収益を確保するため、付加価値の高い世界戦略車を相次いで投入した。1.6〜1.8リッターのレオーネでは、こうした市場の変化に取り残されるとの危機感がスバルのあらゆるところで生まれていった。その結果、新開発エンジンは2.0リッターとすることにした。
しかし、エンジン形式については議論の余地があった。ゼロからの開発なら、水平対向にこだわる必要はないという声があったのだ。
V4(V型4気筒)、L4(直列4気筒)、そしてH4(水平対向4気筒)が検討された。L4については試作エンジンの走行テストまで行なわれ、実際かなりのレベルまで仕上げられていたという。
だがエンジン担当の工藤は、改めて水平対向エンジンの選択を主張した。「水平対向のメリットのほうがはるかに多い。重心が低く、コンパクトで軽い。トランスミッションに関するノウハウもある。また水平対向なら、2.0リッターで基本型を作っておけば、上は2.4リッター、下は1.5リッターまでひとつのラインでつくることができる。水平対向こそが最良の選択だ」
2.0リッター水平対向エンジンの開発が始まった。目標として掲げられた数値はリッターあたり100PS。つまり2.0リッターで200PSだ。とにかくパワーを出せというのがエンジン部隊への要求だった。エンジンの中でもっとも重要なクランクシャフトの強化と、それを支えるジャーナルの5ベアリング化、吸排気の4バルブ化などを施し、最終的には目標を超える数値が出た。
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走りを磨<ために、再びヨーロッパへ
「すごいエンジンができたらしい」という情報は、瞬時に他の部署にも伝わった。エンジン性能が上がれば、それを上回るサスペンションやブレーキをつくらなければならない。実験部隊も発奮した。
1987年6月にレガシィの一次試作車が完成すると、桂田ら実験グループはこれを持ってヨーロッパヘと飛んだ。 10種類以上のサスペンションを持ち込み、比較車としてBMW、メルセデス、アウディなどを用意して、数年前に苦い思いをしたアウトバーンに向かった。
速度無制限とはいえ、急なコーナーなどは制限速度が設けられている。しかし、ときおり速度制限のないコーナーもあった。そんな場所を、比較車は速度を落とさずに180km/hくらいできれいに抜けていった。だがレガシィの試作車は、これについていけなかった。
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「このままでは完成度が低すぎる。
誰が何といっても販売しない」
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「このままでは日本に帰れない」と桂田は思った。
すべてのサスペンションを試し、何度もセッティングをやり直しながら走りを磨きあげていった。あらゆる道を徹底的に走りこんだ結果、満足のいく仕上がりとなった。
帰国後、サスペンションに合わせたタイヤをつくってもらうために、タイヤメーカーに試作車を貸与した。するとタイヤメーカーのテストドライバーは「自分は国産のほとんどのクルマをテストしてきたが、こんな乗り心地のクルマは初めてだ」と、試作車を非常に高く評価した。外部の人間、しかもタイヤの専門家にそう言われたことが、スバルの技術者たちに大きな自身を与えた。
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初代レガシィ、ついに発売
かくして1989年1月23日、スバルの命運を賭けた新型車「レガシィ」が発表された。当時としては国内トップクラスの性能を持っていたレガシィを、開発者は自身を持って市場に送りだした。しかし発売当初、肝心の販売台数は今ひとつ伸びなかった。走りの性能を高めただけでは、ユーザーにとって魅力的な商品とはいえなかったのだ。
そんなレガシィがブレイクするきっかけとなったのが、初代レガシィの発売から9ヶ月遅れで登場したATターボのツーリングワゴンGTだった。この「GT」が、後のレガシィの方向性を決定づけることになった。
AWDはハイパワーエンジンと組み合わせてこそ、メリットを最大限に引き出せるという信念のもと、ワゴンにターボを搭載したGTを発売することは、早い段階から決定していた。ところが試作段階でGTに乗せたエンジンは、セダンRSの220PSターボであった。この高出力型エンジンは高回転時のパワーは出るものの、低速でのレスポンスは今ひとつ。MTなら任意の回転数で走らせることができるので問題はないが、ATではターボとのマッチングが不十分なため、どうしても走りがぎくしゃくしてしまう。「このままでは完成度が低すぎる。誰が何といっても発売しない」と桂田は主張した。社内では反対意見も出
たが、最後は目先の利益よりも、しっかりとした物をつくることに賭けた。
発売を遅らせたことは今にして思えば正解だった。220PSの最高出力を200PSまで抑え、代わりに低速トルクにゆとりを持たせた。これによってATとのマッチングが向上、扱いやすい高性能パワーユニットとなった。理想を求め、信念を貫く。スバルのクルマづくりの基本が、ここにも現れている。
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「走り」に「質感」を加えて商品カ向上
90年代に入ると、バブル経済に陰りが見え始めた。人々の気持ちは見た目の豪華さを求める上昇拡大志向から、物としての本当の価値を重視する本物志向へと移りつつあった。
初代レガシィは当初こそ苦戦したが、GTシリーズの投入やワゴンの販売拡大により着実に台数を伸ばしていった。これを維持、あるいは上昇させるために、開発陣は次なるステップに踏み出した。
「ニューモデルが完成した時には100点に見えた初代レガシィだったが、しばらくすると次から次へと問題点が見えてきた」と桂田は言う。
「100点満点に見えても、どういうわけか1年も経たないうちに欠点が見えてきて自己採点で70点に落ちてしまう。すると1年目のマイナーチェンジでも、すぐに手を入れたい気持ちになる。実験部隊の本性としては『気がついたらすぐ直す』そんな感覚だ」
モデルライフを通じて商品力を保ち続けるためには、継続的な努力を必要とする。そのためスバルでは年改と呼ばれる1年毎のマイナーチェンジでエンジン、サスペンションなど、小さな変更を多数施していって完成度を高めていく。これは現在も引き継がれているスバル独特のやり方だ。
さらにモデルサイクルのちょうど中間にあたるところで、BMC(ビッグマイナーチェンジ)という大規模な見直しを行なうのが通例となっている。デビューから2年を経過した1991年、初代レガシィのBMCの時期を迎えていた。
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新たな個性「Brighton」登場
初代レガシィはGTをはじめとした商品力の高さで市場から高い評価を受けたものの、デザイン面などにやや荒削りな部分があったことも確かだ。開発陣にとっての次なる課題はクオリティアップだった。
フェイスリフトなどにより質感を高めるとともに、新開発の2.0リッターSOHCエンジンを搭載したニューモデル 「Brighton」を追加した。車名となったブライトンはイギ
リスの有名なリゾートであり、その名のとおり内外装に大人のレジャービークルとしての上質感をもたせた。
GTのスポーティなテイストに、ワゴンとしての本質に焦点をあてた「Brighton」を加えたことで「レガシィ=ワゴン」のイメージが確立し、その後のワゴンブームの火つけ役となった。
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| ■ 初代レガシィが残した、現在に受け継がれる価値 ■ |
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「ドライバーズカー」コンセプト
走りにこそクルマの本質があると考えていた開発陣にとって、当然とも言える明快なコンセプト。それが初代レガシィの「ドライバーズカー」というコンセプトだ。「本質を追求するスバルのエンジニアの思いが爆発したのが初代レガシィだった。その思いは、今もそのまま受け継がれている」
(4代目レガシィ 開発責任者:清水 一良)
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桂田 勝 (かつらだ まさる)
1966年入社。研究実験第1部主査、研究実験総括部長として、初代レガシィ、2代目レガシィの全体の開発と評価を担当。3代目レガシィでは主管を務める。 |
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工藤 一郎 (くどう いちろう)
1975年入社。エンジン設計畑を歩む。初代レガシィではエンジンのとりまとめを担当。 |
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杉本 清 (すぎもと きよし)
1968年入社。サンバー、レオーネ系のエクステリアを担当。初代レガシィ、2代目レガシィではチーフデザイナーを務める。 |
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